· 

「キリスト教の修行」

『誕生』 S100/ミクストメディア

作者近影

Yutaka Michael Maria KAMEGAYA(ユタカ ミカエル・マリア カメガヤ)
Yutaka Michael Maria KAMEGAYA(ユタカ ミカエル・マリア カメガヤ)

「キリスト教の修行」

 

 

何かになるために自分を磨き精錬させる。

それが修行である。

キリスト教では修行という概念はあまりないが、キリストの名によっていわれのない迫害をされる時、天の国に入れると言われている。

迫害されるための修行というものはないが、迫害に対する心の強さを養うための修行はあるだろう。

その修行とはひたすら「祈り」を重ねることである。

ミサ(教会での祭儀)ではもちろん、日常生活の中でも繰り返し繰り返し、祈るのである。

祈りとは何かというと、「神を依り頼む祈り」である。

弱い自分はどんなに修行をしても弱いまま変わらないが、弱い自分を神様に捧げることで、人は誰よりも強くなれるのである。

 

一度世の中から迫害が始まり追放されると、もう困った時には人間は誰も頼れない。

本当に社会的ないじめが始まると、肉親を含めて人間を誰一人頼れなくなる。

じゃあ誰に頼るかと言ったら、神様しか頼れないのである。

その神様への自分の忠誠心や近しさは、ひたすら神様に祈るしかないのである。

祈って、弱い自分を全部神様に捧げることで、自分を最大限に強くしていただくほか無いのである。

 

そんなおとぎの国の話をするのか!?と、思うかもしれない。

でも本当に世の中から迫害され、痛みのさなかにある時、きっとあなたもそうするしかなくなるだろう。

例えば私がそうだ。

私は33歳になる時分に、世間一般から「イエス・キリスト」の神の名の下に過酷な迫害に遭った。

私は何にも悪くないのに、世の中が私を勝手に「神様」にまつりあげて、逆に悪の親玉のようにも言われて、そこかしこからいじめが始まったのである。

街でも駅でも公衆トイレでも、テレビをつけても、知らない誰かから何かしらのいじめを受けた。

ところが、それを話しても両親や教会を含めて、誰も何も助けてくれない。

むしろ両親は社会の味方をして、私がその目に遭って当たり前だと断罪した。

近所の道を歩けば、ホースで水を引っ掛けられたり、風呂桶に貯めた水を目の前で浴びせかけられたり、待ち伏せされた老人からはテニスボールを私めがけて打ち込まれたり、とにかく普通に道を歩くのも困難であった。

横断歩道では青信号で渡っているのに、軽トラックで突っ込まれたり、死の恐怖も味わった。

電車の中でも話題は私の悪い話で持ちきりで、ひと時だって休める瞬間はなかった。

本当にひどい社会的迫害であった。

私は、何も悪いことなどしていない。

もう神様しか頼れるものがなかった。

いつもポケットにはロザリオを入れて祈り、毎日をひたすら命懸けで生き、世の中から逃げたいために自分で自分の命を殺めることもしなかった。

私はそうやって30代前半を必死に生きたのである。

私を支えたのは神様への祈りであり、私を強めたのは信仰だけであった。

 

私が何を言いたいかといえば。。。

弱い自分。

貧しい自分。

そういうものを神様に正直にさらけ出すと、真実の幸せと祝福を与えていただける、という話である。

聖書にはマタイ福音書の5章に有名な箇所がある。

山上の説教(垂訓)である。

そこの1節に「自分の貧しさを知るものは幸い」とある。

それは、「あなたは幸せで神様に祝福されてます!自分が貧しいことを知っているからです。」

という意味である。

そして10節には「義のために迫害されるものは幸い。その人は天の国に入る。」となっている。

それは、まさしく上記した私の境遇のようなことだ。

そう、私は社会から神だと抹殺されそうになって最大限に苦しんだ時、天の国に入れてもらったのである。

逆に、幸せだったのだ。

だからこそ凄まじいパワーを発揮できたし、この世から逃げようと自分で自分を殺めることもしなかった。

 

まあここまで私事を長く書いてきたが、困ったら「祈り」が助けてくれる。

それを言いたいのである。

そして、キリスト教徒としての修行は、日々「神に祈る」ことである、と。

「神に祈る」ことで、弱い自分を神様に強めていただき、日々の困難を乗り切り、毎日を充実して生き切る。

「祈り」と「生活」が一体となったそういう人生そのものが、更に言えば「本当の修行」なのである。