「聖木曜日に足を挫く」
今日は聖木曜日。
キリストが十字架に架けられた日である。
聖金曜日に処刑されるのだが、今日の聖木曜日は一日中、十字架に貼り付けられたまま晒し者にされる日である。
実は、夜の教会ミサへ行く途中の道で右足首を捻挫してしまった。
二人で話しながら歩いていて、暗い夜道で足元が見えず、突如窪んだコンクリート地面に足が取られてしまったのだ。
結構派手にズッコケた。
左足の膝をギザギザのコンクリ地面に着いて転んだので、膝頭が流血し、右足首は捻ったまま体重がそこに乗り痛めてしまった。
その場で膝頭だけティッシュをガーゼにして絆創膏で固定し、急遽近くのコンビニにも行き、熱さましのシートを買い(コンビニに医療用湿布は売っていないため)、足首に貼った。
応急処置はバッチリであった。
ああ、人類に命を取られる代わりに、今回は足に来たか。
神様は私に実際の肉体的な痛みをお与えになって、「十字架の死と復活」を覚悟しなさい、と言っているのだろう。
それにしても私は、生まれ持っての殺される運命だな。
しかし、前世では義のために処刑されたが、今世では処刑はされないであろう。
その代わり、様々なイジメを受けて私の人生は、今まで殺されてきたも同然であった。
これからも茨の道を歩むだろう。
容易な道じゃない。
足の痛みをそう言う思いで体感しながら、この聖なる過越の三日間を迎えたいと思う。
私の今世での「十字架の死と復活」は、アートで表現したいと思っている。
キリスト没2000年後の今の世界に生まれ変わった私キリストは、「人類の救いと成長のために」アートで尽くして死のうとは思う。
だが、「人類の罪のため」にはもうむやみに代死しないつもりだ。
死んだところで、人類の罪は本当には洗われないと思っている。
洗っても洗っても、人類は自分自身をまた汚してしまうからである。
それよりも何か芸術作品を残して多くの人々に見てもらった方が、その間だけでも罪の気持ちが洗われるではないか。
だから私は平和の記念として作品を残す。
そのために一生の情熱を傾けたいのである。