絵画作品「CROSS」
作者近影
『私の教会物語②「そしりと戦う」』
先日の日曜日、所属するカトリック教会でのミサ終了後に、たまたま年配信者のある一人に自己紹介も兼ねて、絵画教室の紹介をしました。
すると、
「あ~芸術家の方ね?でも、教えているの、抽象画なんでしょ?」
と、眉をひそめてあっさりと言われたのです。
私の噂は教会内で伝わっているようで、教えてないのに私のあらましをもう既に知っていました。
それにしても、「でも」とは、なんなのでしょうか?
そして、抽象画は私にはわからない、と言う意味合いが態度で見てとれました。
「抽象画の教室なんて、自分にはわからないし、絵画教室としてイマイチだ。」
拡大解釈すると、そういう内容にも感じ取れました。
私は批判されていると受け取り、すぐさま、
「デッサンもきちんと教えてますし、人物画も静物画も教えていますよ!」
と、私の教室カリキュラムの事実を言い返すと
「あ~、そうなの。」
と、なんだかそれで納得したようでした。
私は正直、がっかりしました。
アートに疎いとはいえ、抽象画を忌避して差別するなんて、なんたる古い考えなのだろうか、と。
そして、なんたる偏見なのでしょうか?
それだけでなく、そういう言葉を返してくる愛のなさには、はっきり言って絶望しました。
それ以前にも他の信者から、私はこう蔑まれたこともあります。
「あなたの絵なんて、メチャクチャに描けばできるんでしょう?」
はっきり言いますが、私の絵はメチャクチャに描いてもできません。
自分で言ってしまいますが、私の抽象画は、デッサン力があって色の知識と画面の構築性をよく知っていないと到底描けない、レベルの高い絵です。
私はカトリック教会の信者達が、こういう偏見で人を見る現実に悲しくなります。
「てめえら、クリスチャンだろうが!!!」と、彼らに叫びたくなります。
人に自分が理解されるよりも、人を自分が理解することを選ぶのが「愛」であり、キリストの遺した意思です。
つまり、それは「わからないものを愛する愛」であり、それがあるからクリスチャンだと、私は私を自認しています。
その「愛」を教えるキリスト教会で、ましてやミサで神父が神様のメッセージを説教した直後に、人や物事を穿った見方で判断しているその現実が残念すぎて、私は居ても立っても居られないのです。
その年配信者は、「他者への愛に命を捨てろ。」とさっきのミサ説教で神父に教わったばかりなのに、自分本位で隣人に愛のないジャッジをして、愛なき言動を晒しています。
嗚呼、2代目キリストの困難な道のりよ。。。
私は、神様のご用意された道の険しさを、こうやっていつでも思い馳せます。
でも、私は神様を信じているので、この険しい人生をきっと走り抜けられるでしょう。
我が人生、つくづく闘いだな、と思います。
闘いの大天使ミカエルと、愛の聖母マリアがくっついた「ミカエル・マリア」がこの世の私の霊名です。
いつの間にやら、私は洗礼を受けてこの霊名を授かってからは、教会内でも外の世界でも「闘いと愛」に生きてきた次第です。
外でも闘っているといえ、やはり母体教会での人々のそしりには、負けてられません!