私の愛する瀬田教会
「主の祈りを唱え、一致を目指す」
今日は、キリストの言葉「主の祈り」を唱えようと思う。
これは、カトリック・クリスチャンが毎週日曜日のミサで、必ず唱える天の王言である。
「天におられる私たちの父よ
御名(みな)が聖とされますように
御国(みくに)が来ますように
御心(みこころ)が天に行われるとおり 地にも行われますように
私たちの日毎(ひごと)の糧(かて)を 今日もお与えください
私たちの罪をお赦(ゆる)しください
私たちも人を許します
私たちを誘惑に陥らせず
悪からお救いください」
この文言は、全ての者達、生きとし生ける者も死せる者も、全存在の全てを、「和解」させるための天の言葉である。
今日は日曜日で主日。
我々カトリック教徒は日曜日を、キリストの日として親しみ崇めて「主日」と呼ぶ。
さあ、メインの祈りの舞台である、9時半のミサに行こうか。
私たちカトリック瀬田協会の信徒達は、コロナでの人間不信や様々な負の人間関係が原因で、分断してしまった。
それを先週、主任神父の小西神父が説教で憂いて、まずは8時半のミサを無くし9時半に統一することで、信徒の心の一致を図るための彼の夢を宣言した。
うまくいくよう祈るばかりである。
ただ、私の気にしている心配事は、私を14年前の入信直後にボコボコにいじめた元教会委員長とその仲間達も、自動的に8時半から9時半に移ってくるということだ。
ほとんどの信徒はもう新しい人ばかりで、それを知らない。
いじめた彼らへの対応だが、会ってもこちらからは話しかけるのは、一切やめておこうと思う。
自分の罪を感じて悪いと思っているのなら、あちらから「あの時は悪かった。」と挨拶してくるはずだ。
でも、その挨拶がないというのなら、彼らは傲慢なまま、私をいじめた罪を大した罪だなんて思っちゃいない。
天に謝り赦されたから、迷惑をかけた本人には謝らない。
そういう考えでいるのなら、もう関わるのをやめておきたい。
神の子をいじめた罪は何よりも重い。
見えない神様にどんな謝り方をしたって、神父に告解したって、ダメだ。
私に直説謝らなきゃ、何にも赦されない。
彼は重罪のために病を患いこの世を彷徨い続けるし、あの世においても永遠に赦されることはない。
それが、罪人の進む道だからである。
私も神父と同じく、瀬田教会の信徒達の分断された姿を直したいが、私に対する罪を抱える者は、まずは私に直接に「悪かった。」と素直に謝ってほしい。
でなきゃ、私が人間的に救われないでじゃないの。
私が既に天には救われていても、私がシャバで暮らす以上、人間的な救いも必要なのである。
まあ、いじめた当人達へのこちらからの余計な気配りは、一切辞めておこうと思う。
謝りもしない人間に優しく近づいても、彼は罪を改めないし、私がまた権力や政治力によって同じ目に遭わされる可能性があるからである。
そうなると、ミサでの大いなる祈りから逸れて、余計な精神的負担をたくさんまた増やしてしまう。
権力や政治力のある方々との人間的調和を気にしすぎて、ミサをなおざりにするのは、本末転倒だ。
神様は、祈りによって一致する姿を望んでおられるからである。
「主の祈り」を、心を込めて、精神を込めて、思いを込めて、まずは共に唱えるところから始めたい。
それによって元教会委員長との和解のきっかけすら掴めないのであれば、彼とは無縁のままであろうし、私はそれで彼との和解を諦めようと思う。
当人は苦しいままでしょうが、それは自業自得というものです。