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「見過ごした中の宝物」

「EDEN」四六判半裁サイズ79×55cm / ミクストメディア、支持体:水彩紙 (山梨県のUさんにお買い上げ頂きました)
「EDEN」四六判半裁サイズ79×55cm / ミクストメディア、支持体:水彩紙 (山梨県のUさんにお買い上げ頂きました)
YUTAKA
YUTAKA

「見過ごした中の宝物」

 

 

ありふれた何でもないもの。

見捨てられたもの。

使うには忍びないもの。

そういうどうでも良い、ゴミ同然のものに、実は努力次第で最高の価値を付けることができるのである。

 

当たり前すぎて見過ごした物の中に、実は普段考えもしない発想が詰まっている。

それを見つけられるかどうか?

 

あなたの周りにも、ゴミを見て宝だと思う人が心当たりいるかもしれない。

そういう人は、ゴミをゴミだと見ず、素材やエッセンスとして捉えているのである。

そういうゴミの中に見つけた新たな価値を、自分の努力なりに発展させることができれば、最上のものと化す。

 

最近の話だと、アフリカ:ガーナの海岸に流れ着いた電子部品ゴミを使ったアートを展開する作家【長坂 真護(ながさか まご」)1984年生まれ】が、銀座のデパートで作品展示をしていた。

彼は、海を漂流して流れ着いたスマホやパソコンなどの人工の電子廃棄物でアートをして、「サステナビリティ・キャピタリズム=持続可能な資本主義」を提唱している。

私なりに言えば、それは電子ゴミの中に「人間の業(業(ゴウ)=生まれ持った罪深い特性)」を見つけたのである。

ただのゴミを「持続可能な資本主義」のための素材やエッセンスとして用いて作品にし、更にそこに「人間の業」という価値をつけたわけだ。

その業の素であるゴミの塊を、分解し、再構成して作品に仕立て上げ、何とも類まれない自分だけの最高の価値をアートとして生み出したのである。

何と、彼の作品は、数十万円から1000万円ほどで取引きされている。

ただで拾ったゴミがお金に化けたわけである。

 

まあ、これは本当のゴミを使った直説的すぎる話であったが、私の言いたいことはそういうことだ。

ゴミじゃなくても良い。

当たり前すぎて、今更、声を大にして関わるには恥ずかしいような事象は何でもそうだ。

例えば、家族への愛だったり、友達への親交であったり、そういう日常の関係についてもありがたく感じたいと思っている。

そういうありふれたものこそ感謝して、最高の価値を生み出そう。